ほんじょう しげなが

本庄 繁長

(1539?〜1613)

本庄氏は、関東秩父氏の一族・秩父行長を祖としている。行長が鎌倉時代に小泉荘本庄の地頭職に任命されたことにより移住し、本庄と名乗った。

繁長の父親は房長。繁長は弥次郎・越前守と称していた。代々越後守護の上杉氏に属していた。
下克上になると、守護代の長尾為景が守護の上杉氏を打倒して台頭してきた。本庄氏はいち早く為景に味方した。為景死後は一時期長尾家に抵抗していたが、後に景虎(謙信)に臣従するようになり、謙信のよき補佐役として仕え、数々の軍功を挙げる。

しかし、永禄11年(1568)・武田信玄に内通、謙信に叛旗を翻した。繁長は謙信に背くものの、味方を集めることができずに、奮戦の末・息子の顕長を人質とする条件で許しを得た。許しを得た後は、謙信・景勝によく仕えた。

謙信死後(1578年)に起こった跡目相続、御館の乱では上杉景勝に味方をして戦功を挙げたが、息子の顕長は上杉景虎に味方した。景虎に味方した顕長ではあったが、父親の繁長が顕長にくみせず、終始景勝に味方をした功績によって、後に顕長は許された。

慶長3年(1598)景勝が会津へ移ると、繁長も同行・福島城の城代となった。
慶長5年の関ヶ原の時は奮戦して、伊達政宗の進軍を阻止するなど活躍した。合戦後の上杉家領地削減の後の慶長18年(1613)・12月20日に天寿をまっとうした。



写真は全て本庄繁長所用と伝えられている、兜・軍扇・采配・念珠
(山形県白鷹町常安寺所蔵・兜の1点=左上は、新潟県村上私立郷土資料館館所蔵)
また右下の鎧兜は本庄繁長使用と伝わる・福島県長楽寺所蔵


長楽寺と八幡神社(長楽寺境内) 福島県福島市
本庄繁長は始めは越後村上(村上城=本庄城)に居城。
上杉謙信・景勝に仕える。
上杉景勝が会津120万石にて移領すると、本庄氏も福島城代として移住。
奥州の伊達政宗の押さえとして配置される。
福島城は四代目の本庄政長まで居城した。

この長楽寺はかつての福島城・北二之丸内に建てられたものであり、また八幡と言う名前は、上杉景勝より賜った繁長の別名。
繁長死後の翌年に八幡宮を建立。(1614年)

本庄繁長は俗に繁長八幡宮と称され毎年9月15日を祭礼として現在まで続いている。
そしてこの八幡神社そのものが本庄繁長の墓となっている。





本庄繁長の木造
祭礼の9月15日のみの一般公開。


本庄家累代の墓(福島県福島市長楽寺)

*4代目以降は上杉家の領地が30万石から15万石に減らされた時、米沢の鮎貝城へ移動した

四代目
本庄政長
三代目
本庄重長
二代目
本庄充長


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